前回の山陰出張中に急きょ決まった7月11日(火)~12日(水)の広島県三原市への出張。
最初に聞いた時、三原市ってどこにあるんだろう?と思った。山陽方面は新幹線で通り過ぎただけ・・・。まったく不案内な土地だ。
最初に聞いた時、三原市ってどこにあるんだろう?と思った。山陽方面は新幹線で通り過ぎただけ・・・。まったく不案内な土地だ。
夕方、ホテルにチェックイン。夜の打合せまで時間があったので、近くを散歩することにした。まずは、駅に向かう。散策マップを見ると、「三原城跡」は駅の北側に記されている。駅の案内に従って駅舎の上階に行き、表に出るとそこが三原城跡の「天主台跡」だった。
特に何があるわけでもなく、石垣の上に公園がある感じ。

石垣は結構高い。

1階に戻り、外に出ると石垣がドーン!と目に入る。カッコイイ石垣だ。

堀に沿って進む。堀の周りは「三原城跡歴史公園」として整備されていた。
天主台全景。画の奥が駅。
天主台全景。画の奥が駅。

ぐるっと堀を回って高架下を通る。何と、ここにも石垣がある。


〈三原城メモ〉
永禄10年(1567年)、毛利元就の三男・小早川隆景によって、大島・小島をつないだ埋め立て地に築城する。現在は天主台や舟入櫓の一部しか残ってないが、当時は、東西約900m、南北約700mもの広さだったといわれている。この中に本丸、二之丸、三之丸があり、櫓が32と城門が14もあるとても大きな城で、満潮時に城の姿が海に浮かぶように見えたことから別名「浮城」。
天主台は広島城の天守閣が6つも入る日本有数の広さ。天主台に天守閣を設けるようになったのは三原城より10年後の安土城からで、三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想の無い時代だったと考えられる。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築。
明治に入ると、三原城は解体され、明治27年(1894年)には、山陽鉄道の三原停車場が完成した。
永禄10年(1567年)、毛利元就の三男・小早川隆景によって、大島・小島をつないだ埋め立て地に築城する。現在は天主台や舟入櫓の一部しか残ってないが、当時は、東西約900m、南北約700mもの広さだったといわれている。この中に本丸、二之丸、三之丸があり、櫓が32と城門が14もあるとても大きな城で、満潮時に城の姿が海に浮かぶように見えたことから別名「浮城」。
天主台は広島城の天守閣が6つも入る日本有数の広さ。天主台に天守閣を設けるようになったのは三原城より10年後の安土城からで、三原城築城の時はまだ天守閣を造る思想の無い時代だったと考えられる。山城から平城に移行する時代のごく初期の城築。
明治に入ると、三原城は解体され、明治27年(1894年)には、山陽鉄道の三原停車場が完成した。
駅前には「やっさ躍り」の像。

8月に行われるやっさ踊りの起源は、三原城築城を祝って、三味線、太鼓、笛などを打ちならし、思い思いの歌を口ずさみながら踊ったのが始まりといわれている。「やっさ、やっさ」と声をかけられるところから、いつしか"やっさ踊り"と呼ぶようになったとか。
駅前にはタコも。通りにも様々な名前のついたタコ(モテだこ、困りダコ・・・)がいた。

三原は、瀬戸内でも有数のマダコの産地として知られているようだ。夜の打合せでもタコを使った料理と、初めて「たこ酒」というのも頂いた。
たこ酒は蓋付きの器で出され「2分待ってお飲みください」と。じっと待って蓋をとると香りが漂う。中には炙ったようなタコが入っていた。お代わりを頼むと、熱燗が器に足され蓋をして「2分待ってくださいね」OK。

散策マップの表紙には「浮城とやっさのまちで ダルマとタコに出会う」と記されている。ダルマは見ていないけど、瀬戸内三原の文化に少しだけ(ほんの少しだけど)触れることができたかな。また機会があれば。