さいたま市に「見沼たんぼ」という江戸時代の新田開発地がある。かつて、その用水となる見沼代用水路東縁及び西縁と芝川を結ぶ、総延長約1kmの閘門式運河「見沼通船堀」が運行されていたと知り、9月30日(金)に立ち寄ることにした。(お彼岸に行けなかった義母宅に行く途中)
見沼通船堀は、江戸時代中期の享保16年(1731)に開通した閘門式(こうもんしき)運河で、大正時代の末頃まで利用されていた。
東西の見沼代用水と芝川は、その水位差が3mもあったため、東西2ヵ所ずつ閘門を設け、水位を調整して船を通した。
閘門式運河で有名なのは、太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河であろう。規模は比較にならないが、パナマ運河は1914年の完成なので、見沼通船堀はパナマ運河よりも183年も前にできていた。
見沼通船堀は閘門式運河として、日本有数の古さであり、江戸時代中期の土木技術の高さが評価されている。また、近世の土木技術、流通経済を考える上で貴重なものとされ昭和57年(1982)に国指定史跡となった。(現地説明板、市のWebサイト参照))
芝川の八丁橋と並行する歩行者専用の橋から北側を見る。左側の小さい橋のところが見沼通船堀西縁、右側は藪で分かり難いが電柱と電柱の間に見沼通船堀東縁がある。

今回、見沼通船堀東縁を進むと、最初に見えるのが「一の関」という水門。

その先に「二の関」。通船堀に水は通ってない。用水側で水を止めているのだろう。

一の関と二の関の間は閘室(こうしつ)にあたり、2つの水門(関)に挟まれた水路に船を収容して水位を上下させる部分。閘室内には堀の幅が広くなっている部分(舟溜り:ふなだまり)があり、用水へ上る船と芝川へ下る船がすれ違うことができる。
関の中央にある太い木枠を鳥居柱といい、ここに角落(かくおとし)と呼ばれる板を取り付けたり、外したりして水位を調整する。角落の大きさは、長さ11尺(約333cm)、幅6寸(約18cm)、厚さ2寸(約6cm)の細長い形。

見沼通船堀の開削、特徴、構造、通船のしかた、閘門開閉のしかたなどは、さいたま市Web「見沼通船堀のしくみ」が参考になる。
https://www.city.saitama.jp/004/005/006/008/p077111.html
鳥居柱に沿って角落を設置するのは水圧を上手く利用している。9枚積んで高さは162cmになる。2つの関で高低差3mを乗り切るわけだ。
一の関では、毎年8月に閘門開閉の実演をしているらしい。(←リンクの動画参照)

二の関の上流側は、堀が浅い。用水側の方が水位が高いし調整が効くので、これで充分なのだろう。

反対側の見沼通船堀西縁は、JR武蔵野線東浦和駅からほど近いところにある。
◆水神社、鈴木家住宅
八丁橋のたもとには「水神社」がひっそりと佇んでいた。見沼通船堀のおかげで、江戸と代用水路縁辺の河岸の間で荷物を運ぶことができ、当地には河川輸送に携わる方たちが住んでいた。水神社は、その方たちが水難防止を祈願して祀ったもの。

本殿は関東大震災で全壊してしまい、翌年に再建されたもの。国の史跡に追加された。

荷物は、見沼で取れた米(年貢)などの農産物が江戸に運ばれ、江戸からは肥料や塩、酒などの商品が水上交通によりもたらされた。
対岸の近くには、同史跡に追加された「鈴木家住宅」がある。鈴木家と高田家は見沼開拓事業に参加し、見沼通船堀の完成と同時に両家は差配役に任じられ、当地で通船会所を持っていた。

その後(文政年間以降)住まいも同地に移した。現存する住宅は、このころの建立で、見沼通船の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物とされている。

◆見沼誕生~見沼用水~見沼代用水~見沼通船堀までの経緯
古代、海面は現在よりも高く、現在の「見沼たんぼ」のある地域は東京湾とつながる入り江であった。その後、約6000年前を境に海が後退し、入り江が東京湾と分離して、無数の沼・湿地が生まれた。その一つとして見沼が誕生した。
江戸時代初期、利根川と荒川は合流して東京湾に流れ込んでいたが、氾濫を繰り返しており、また新田を開発することから、利根川東遷と荒川西遷の大土木事業が行われた。
大河川が遠のいた当地では水不足が懸念され、八丁堤と呼ばれる堤防を築き、農業用水を貯めておく大規模な溜井(ためい)を設けた。見沼溜井から水を引く「見沼用水」のおかげで周辺の新田開発が進んだが、次第に見沼溜井だけでは新田開発に追いつかなくなり再び水不足になった。
その後享保12年(1727)、 徳川吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)が、新たに利根川から用水を引き、見沼溜井は干拓して新田開発し、排水路として中悪水路(現芝川)を掘削する大工事を行った。
利根川から引かれた水は、見沼に代わる用水なので「見沼代用水」と呼ばれた。見沼代用水は、取水口(行田市)の利根川から見沼まで全長60km、末端(東京都足立区)までは84.5kmにも及んだ。
米が収穫できるようになったことから、年貢米として江戸に運ばれることになり、そのために造られたのが、東西の見沼代用水と芝川を結ぶ見沼通船堀で、井沢弥惣兵衛為永によって開削された。(さいたま市のWebサイトから抜粋しまとめたもの)
井沢弥惣兵衛為永さんはスゴイ。ちなみに、さいたま市緑区の「見沼自然公園」に井沢弥惣兵衛為永さんの像が建っている。