シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

吉見町:国指定史跡『松山城跡』と『岩室観音』

9月25日(日)、前回の「吉見百穴」見学の前後で、近くの『松山城跡』と『岩室観音』にも行ってみた。

松山城跡(比企城館跡群)
松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城、平成20年(2008)には、すでに国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町嵐山町・小川町)と共に加わり、『比企城館跡群』として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。

吉見百穴で頂いた、松山城跡のパンフレットの表紙を拝借。三方が市野川に囲まれているのが分かる。


築城に関する文献資料は極めて乏しく詳細は不明。歴史的には、小田原北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させる。
特に、天文6年(1537)に小田原の北条氏綱江戸城川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も小田原北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、小田原北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。
松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。(パンフレット参照)

現状の城の縄張りは、小田原北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っているという。
国道沿いの本曲輪入口から上り始めるが、この山道で合っている?と疑いながら・・・。


急に開けて、山道に比べてかなり幅の広い石段が登場。


その上が本曲輪だった。東西、南北とも45mの広さがあるようだ。


現地の案内図。光の反射のせいで、やや斜めから撮らざるをえなかった。


曲輪構成は、西から東に向かって本曲輪・二ノ曲輪・三ノ曲輪・曲輪四が一直線に並び、それらを取り囲みながら惣曲輪・兵糧倉跡を始め大小様々な曲輪が配されている。曲輪の周囲には大規模な空掘と切り落としがあり、城跡の南側の斜面には竪堀も認められるとのこと。市野川もあり、確かに要害だと思われる。

◆吉光院 當選寺(とうせんじ)
松山城跡への本曲輪入口の近くに「當選寺」というお寺があり、道路から多角形のお堂が見えたので参拝してみることにした。


御堂の中には、「承理観世音菩薩」が祀られているそうで、承理=勝利ということからか必勝祈願・合格祈願で訪れる方もいるとか。

 

◆岩室観音(岩室山 龍性院)
松山城跡の麓に、崖に寄り添うようにお堂が建っている。岩をうがって観音像を祀ったところから岩室観音堂と言い、龍性院の境外仏堂である。

弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4センチ)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。松山城主が代々信仰し護持していたが、天正18年(1590)松山城の落城に伴い建物の全てが焼失した。
現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661~1673年)に再建したものと伝えられている。(吉見町のWebサイト参照)


お堂の造りは懸造り(懸崖造り)様式で、規模は異なるが清水寺本堂や長谷寺本堂などと同じ建築様式。石段を上った1階部分の左側は、岩盤と接している。


江戸時代になると、遠隔地を巡礼できない人々のために、地域ごとに完結する札所めぐりが創設された。それほど知られていないと思うが、比企郡内には「比企西国三十三所」があり、岩室観音は比企西国三十三所の第三番である。

また、ここには四国八十八箇所霊場と同じ88の石仏が祀られており、ここで参拝することで、四国をお遍路するのと同じだけの功徳があるとされている。
左側の岩窟の中に1番から51番、反対側には岩盤をくりぬいた中に52番から88番がある。


急な階段を上ると最初に目についたのは、天井の構造材。建物・屋根を支えるために多数の材が使われている。千住札も多数貼られており、額も様々飾られている。


ご本尊が奉ってある側。檻のような扉に見える・・・。


1階の奥、観音堂のその先には谷筋の急斜面に「胎内くぐり」があるそうだが、当日は地面が濡れていたので、そこまで行かなかった。

吉見百穴を訪れる際は、是非、こちらにも訪れてほしい。